職業選択への戸惑い 

もうまもなく本当に就職活動が始まってしまう。
始めなくてはならなくなってしまう。
何となく高校を選んで、選択を先延ばしにするために何となく大学へ進んだが、もうこれ以上は現実から目を背けることは出来ない。
自分の意思で、自分の将来について選択をしなければならない。
自分自身のために、家族や周りの人たちのために。
でも僕には未だに決定的な迷いが残っている。
「どんな職業に就きたいか、なぜそれがしたいのか」・・・そんな肝心の、根本的な部分が釈然としないのだ。

なぜ働かなければならないか・・・、それは自分の中で蹴りがついている。
・家族に特別な資産はないので働かなくては生きていけない
・趣味と仕事とは、スポーツドリンクとスポーツの関係のように不可分で両者が互いを支えるもの。生きることの現状の主な目的は趣味を楽しむことだが、趣味にだけふけっていてもやがて虚しくなる。仕事だけしていてもやがては過労死する。仕事をして疲れて打ちのめされてこそ(喉が渇いてこそ)、趣味はより特別性を増し楽しめるようになる(ドリンクはおいしく感じる)はず。趣味という逃げ場があるからこそ、仕事が辛く苦しくとも頑張ることができるはず。両者は車の両輪だ。
・働かなければ今までに自分自身が受けた様々な投資を親や社会に還元することが出来ない。「不良債権」になってしまう。それは嫌だ。周囲の人に対しても面目が立たない。
・・・こういったことが挙げられる。
しかし実際これを現実で「職業」という形にするとなると、途端に僕の足元はぐらついてしまう。
どうしたらいいかわからなくなる。
上の考えはどんな職業にも当てはまる、仕事をすることの一般論でしかないからだ。
一体自分はどんな仕事がしたいのか、出来そうなのか、すべきなのか。
公務員を昔から目指してきたが、なぜなりたいのか?強い動機を熱く演説することは不可能だ。そんな人間に税金をもらう資格は無い。そもそもそんなやつは決して受かりはしない。
ではどこかの企業では?いやそれはもっとあやふやだ。政治的戦略的思考や決断力などが弱いし、出世欲も無い。競争とは距離を置いてきた人間が適応できるものかはなはだ疑問だ。
うーん、どうしたものか。
本などを読めば何か手がかりはつかめるのだろうか。
最近、香山リカの『就職がこわい』という本を読んで「働いてみよう!」という気分は強まったが、具体的な仕事に関してのヒントは何もつかめなかった。
机に向かって自分に向き合って自問自答してれば何か導き出せるものなのか?
あせりが高まるのに反して、時間はどんどん迫ってきつつある。

とにかく生きていくのにそこそこのお金が必要だから、勤労は国民の義務だから、志望動機なんてそれでいいじゃないか。
とにかく働かせてくれ、僕をいっぱしの一人前の人間にならせてくれ!・・・本気でそう言いたくなる。
何で働くというほぼ強制的に求められる行為に各々の積極的な意思を問われるのか。
この世の中は面倒だ。
江戸時代以前のように職業が世襲制だったら、エリートや天才だけ自分の才能を発揮できる仕事につく仕組みだったらいいのに。そんなことまで思う。
そういう制度なら過疎とかも起きないのにね。
あーやだやだ。
早く働きたいけど、働き出すまでに困難を押し付けられるのにはうんざりだ。

○○診断的なものって・・・ 

そろそろ就職活動という人生の岐路が迫ってきたということもあって、目指す職業(業種、職種)についてや、働くということについてあれこれ考えたり、実情を知って恐れおののいたり、不安で胸がはちきれそうになったり、勝手に思いつめて自分には働けない雇ってもらえるはずないもう死ぬしかないとか思い込みつつ、次の日にはけろっとしてたりする毎日を送っている。

そういったつながりで最近しばしば利用するネットコンテンツが、「適職診断」とか「社会人度診断」とか「就職力模試」とかいった一種のテストだ。

選んだ選択肢の結果に応じて、適した職業だとか、性格・傾向の診断結果だとかがはじき出されるわけで、もちろんその結果だけで安易に仕事を決めるつもりはないが、「そういう仕事もあるんだな」と気付かされたりすることもあって、割と参考程度には役立っている。

しかし、これらのテストを受けていて回答に困ることがある。
それは自分があるシチュエーションに置かれたときどういう行動をとるか、人から普段どう評されているか・・・的な問題が出たときだ。

例えば
「自分のことは後回しにして、周りのことに気を使う方だ。」
「よく人から身勝手だと言われる。」
「どんな時でも、先ず自分の立場を第一にする。」
といった質問。

これらは人との関係における自分の考え方、行動パターンみたいなものが問われているわけだが、暗黙の前提として、「人との割と浅からぬ付き合いが存在する」ことが想定されている。その人間の力が試されるのは人との間においてであって、自分ひとりだけだったらトラブルもクレームも飛び込んでは来ないのだし、試しようもないのだから当然だと普通の人は思われることだろう。そして問題を作っている人も、人間関係でトラぶったり、迷ったりする機会なんて学生なら誰でもあるだろうと、おそらく特に考えるでもなく決め込んでいることと思う。

でも違うんだな〜これが。人間関係の問題にぶち当たらない人間、すなわちぶち当たる知り合いがいない人間というのもいるんだよ。学生の中には。そう、例えば僕みたいな人間が。

上記のような質問は実際の場面を想定しているものだ。人から自分の人となりを評価されたり、もめたりする場面を。しかし僕という人間の場合は、人と本気で争ったり、内面を評されたりするほど突っ込んだ深い交友関係を持った人というのがいない。そもそも大学には知り合いそのものがほとんどいない。人から「自分そのもの」を評価される機会というのがないに等しいのだ。だから質問に対しては自分で自分に問い詰めるしかない。確かに身勝手だと言われたことはないが、しかしその代わりいい人だと言われたり頼れる存在だと言われたこともない。つまり僕という人間は、「誰も食べたことがないから、不味いか美味いかも分からない料理」みたいなものだと言える。

こういう人間というのは非常に問題だと、自分自身思う。人からの指摘=客観的な評価というのが取り入れられないから、自分の自分に対する見方にも変化が生じない。自分を分析してみても、自分から見える景色は同じだからいつも同じ、偏った結果しか出てこず、自分をこうだと勝手に決めつける。人から「ここを改善すべき」「こうすべき」という忠告がないから、自分の悪いところにも気付けない。もしくは気付いていてもそれへの処方箋が毎回同じで使い古しているから、全然効かない。人という鏡がなく、自分の全体像が見えないこと、手足は見えても肝心な「顔」が見えないというのは、ほかの一般の人に対して大きなハンデを負っていると言わざるをえない。

就職活動というのは、本当のところ大学3年から始まるわけではない。その人の生きてきた二十余年の結果としての今の自分が試される機会なのであって、3年の秋になってからの行動なんてのは、最後の総仕上げみたいなものに過ぎない。だから遅くとも大学に入った時点ですでに始まっていると言っていいと思う。実際、1年の前期にサークルに入らなかったことで僕は他の人とは大きく一線を画して(踏み外して?)しまった。人と遊んで騒いだり、その中で人にもまれたりする機会というのを失ってしまって、そういう意味では2年以上をほとんど棒に振ってしまったからだ。こうした経験というのは社会の側からは「当然積んでいるもの」として見られているわけであって、それゆえ上記のような質問がだされるわけなのだが、その常識に当てはまらない僕のような「規格外の製品」というは多分ほとんど想定されてもいないに違いない。クーラーもオーディオもメーターすらも装備していない車なんて、誰も買わないし見向きもされないんじゃないだろうか。

全ての原因は自分の無責任さと情報(大学というものへの「常識」)のなさ、想定の甘さなどに、自分自身に起因する。ああ、悪いのは全部自分のせい。あんな質問してくる就活サイトに文句言う気は毛頭ない。しかし結局どうしたらいいのか分からないし、自分の仕事している姿なんて想像だに出来ない。

こんな駄文を書いてみても結局何ら結論らしきものも解決策も導き出せないのは、自分を評価する材料があまりにも少ないから。じゃあこんなの書くなよってことになるけど、何か書きもせずに自分を分析は出来ない。でも、その結果は毎回同じで・・・。あーもう、嫌になるよ、全く!

死刑存廃論よりも 

何だか知らないが昨日の新聞の一面には、誰かが死刑の判決を受けたみたいなことが載っていた。
当たり前だが、死刑とは一般的には殺人などの重罪を犯した人が科される刑だ。
死刑という判決を下す基準はどのようなものか、というような点でどうやら重要なケースだったらしい。
だが、僕のとってはそれは特に関心を引かれるものではなかった。
被害者の方の無念とか、遺族の方の辛さが計り知れないものであるということはもちろん承知している。
しかしそもそも僕にとっては、「刑法上の死刑」というものが、あまり重みのあるものとは思えないのだ。
なぜなら「社会的な死刑」とも呼べる事象が、現在の日本では、いわゆる死刑とは比べ物にならないほどたくさん、発生してしまっているからだ。
社会的な死刑、それはすなわち自殺である。
日本では把握されている限りで、年間におよそ3万人もの人が、自ら命を絶っているという。
そして同時にその何十倍、何百倍もの、自殺未遂者・自殺志願者が存在している。
僕自身だって、自殺したい気持ちがないと言えば嘘になる。
社会の軋轢の中で、人間関係や金銭のトラブルに悩み、将来に絶望して、一度きりの人生に終止符を打ってしまった多くの人々・・・。
彼らに対して今の世の中はまだまだ冷たいように感じられてならない。
それを感じるのが、「死刑」の議論がなされているときだ。
死刑は世界的に廃止の傾向にあるからやめろとか、犯罪の抑止のために必要だとか、そういう存廃論が語られているときだ。
そういうとき僕は、「ああ、何でそっちにしか目が向いてないのかな」、と憤りを感じずにはいられない。
僕は言いたくなる、もっと重要な論点があるじゃないかと。
人間の命が尊く、等しい重さを持つものだとするなら、
一年間に多くても10人が死ぬかどうかという制度より、実際に3万人が亡くなっている現実の問題を重視すべきなんじゃないか、と。
確かに死刑存廃論はそれはそれで大切なことだ。
それはどこかで続ける必要はあるだろう。
ただ、その議論が多くの自殺者たちのことを差し置いてまで、積極的にする必要があるとは僕には思えない。
少なくとも僕にとっては、自殺という現実のほうがもっと大きな問題だ。
途方もなく巨大な現代社会というシステムが生み出す3万人の自殺者という問題は、死刑という司法の枠組みだけの中の問題より、遥かに複雑で難しいものであり、手が付けがたいものかもしれない。
僕自身、明確で確実な解決策などというものは持ち合わせてはいない。
しかし積極的な対処をしていくべきだということは間違いないことだ。
既存の「死刑廃止を推進する議員連盟」というものだけではなく、「自殺者0を目指す議員連盟」なんてものも出来ることを僕は願っている。
20%減らすとか、そういうのは人の命の問題を扱う場合にふさわしくないから、たとえ理想論だとしても「0」を目指して欲しい。
僕も、自殺しようかなんて考えないような自分になりたいと思う。

最後に一つお断り。
この雑文では、「死刑存廃論より自殺抑止論をもっと論ぜよ」ということをテーマにしていたが、僕は死刑制度そのものとか、死刑と懲役刑の線引きとか、死刑を望む遺族の感情とか、犯罪の抑止といったことを軽んじるつもりは全くないのであって、あくまでそれらとは別の論点として記したものであることをご承知いただきたい。
導入部分が多少誤解を招くものかもしれないと思ったので付け加えておいた。

※批判や意見があれば、遠慮せずお寄せください。

この先、生きていくことは 

僕はもうずい分と昔から、中二くらいのころから、将来は地方公務員になろうと、役場や市役所の職員になろうと考えてきた。

でも今までは、愚かなことに、具体的にどういう風な経緯を経てなれるものなのか、どのようなことを勉強すればいいのか、どういう人間が求められるのかということはもちろんのこと、役所といっても職種が様々あること、それらの職に就いたらどういう仕事をすることになるのかということさえも、知らなかった。知ろうとしなかった。ろくに考えても来なかった。

高校のことを考えていればよかった中学時代、大学のことを考えていればよかった高校時代に「将来の仕事」がぼんやりしたものであるのは、割合よくあることとも言えるし、それはそれで許されうることだろう。しかし大学というもはや次のステップで社会に出なければいけない、最終段階に来て、なお就職ということを深く、真剣に見つめようとしなかった、入学して一年くらいならまだしも二年近くが過ぎようとしている今まで棚に上げ続けてきたということは、あまりにも無責任で、無計画で、楽観的で、愚鈍なこととしか言いようがない。僕は今日になって、あまりにもようやくにして、絶望的なほど強烈にそのことを思い知り、そしてこの現実をもたらした自分自身を呪った。

僕は今日、ネットで、「地方上級」をターゲットに、本格的な情報収集に乗り出した。そうしてみて初めて、自分が挑戦しようとしているハードルが如何なるものなのか、その一端を知ることとなった。そして気付いたのだ。あまりにも、あまりにも、あまりにも、自分は愚かであったということに。

何故自分は公務員を目指そうとしたのか、何故公務員になりたいのか。そもそも、そんな根源的かつ最重要な問いにさえも、僕はしっかりした答えを持ってこなかった。どこか抜けていた。自分で自分に尋ねてみる。―――――「リストラされないから。給料が安定しているから」・・・・・。え?これだけ?それが本心ってこと?「この地域に住む人々のために奉仕したい。住民のために貢献出来る仕事がしたいから」・・・・・・は?何その幼稚な答え。そんな中学生の作文以下の抽象的な文言が、面接官に説得力を持つと思ってるの?第一それと公務員とは別に結びつかないし。普通の企業だって人々が求める財やサービスを提供して、きちんと納税してれば立派に社会貢献してることになるだろうが。それでうまいこと言ったとでも思ってるんなら、ちょっと病院で脳みそスキャンしてもらったほうがいいんじゃない?まあ、心の底から思ってることじゃないのは見え見えだけど。ふーん、なーんだ、結局『何となく』なんだね。何となく安定してそうだから、こつこつ同じ仕事をこなしてればいいだけってようなイメージがあるから、公務員になりたいんだね。なになに?民間企業が求める人材はバイトとかサークルを頑張って色んな経験を積んだコミュニケーション能力豊かな人だろうけど、公務員は自分みたいな大学生として一線画してるようなダメ人間でも、勉強さえ頑張れば、筆記試験を通れば、面接で差し障りないこと言うだけでなれそうだと思う、だって?ほほー、それはどうかな〜。確かに勉強が必要なことは間違いないことだよ。勉強は勉強でも猛烈な勉強がね。でもそれだけが全てだと思ってるならお笑い種だよ。君にビジョンはあるかい?例えば、公務員になってどういうことがしてみたいか、住んでいる地域をよりよくするためには、住民へのサービスを向上させるためにはどういう施策が必要だと思うかなんてこと、考えたことはあるかい?人間性はどうだい?住民の声に真剣に耳を傾ける誠実さ、税金で生かしてもらっていることを忘れず、住民のために全力を注ぎ込もうという決意や公僕としての使命感、不正を決して許さない正義感、どんな不条理な苦情であったとしても素直に頭を下げ、詫びることのできるだけの謙虚さと忍耐力・・・。そういったものが君には備わっていると言えるかい?ああ、言わなくていい、言わなくていい。そんな立派な人間だとはこれっぽっちも期待してないから。何でかって、人との交流もなく、人生経験も貧しいんだから当たり前だろ?誰だってそんな暗い顔もぞもぞ話をするような人間の中身がどんなかなんて、すぐに分かるよ。ウソをついて誤魔化そうとしたところで無駄なことさ。君にはそんな大法螺を吹けるような、器用で達者な口が付いてはいないんだもの。どうしてなりたいかも分からないで、理念も持たないで頑張れるほど、公務員になるための勉強は甘くないよ。・・・あれ?挫折しちゃったの?たったこれだけのことで、もうダメだって思っちゃったの?ったく、呆れた。成人したくせに、へこたれ易さは小学生レベルだな。いやそれより下か?どれだけノータリンなんだよ。あのね、働くってのはね、人からお金をもらって生きるってのはね、どんな職業であれ大変なことなんだよ。みんなつらいこと、苦しいことをたくさん抱えて、毎日必死に苦労して生きてるんだ。一生懸命に生きてるんだよ。それだってのに君ときたら、仕事に就くまでのハードルが高いって知っただけでもう全てお仕舞いだなんて思考のループにはまり込んじゃうなんて。全く、浅はかとしか言いようがないね。死にたければ死ねよ。どうせそんなに自分に甘い人間は、社会の誰も必要としてなんかいないから。――――自分との対話から覚めたとき、自分の自分への甘さや、思慮の浅薄さ、それらがくっきりと浮かび上がってきた。

僕はどうすればいいのか。公務員になろうとするにも、民間企業を目指す方向に転換するにも、今の腐れ根性を根底から叩き直し、偽りなく確固とした目的意識を構築することは不可欠だ。もはや時間はない。この問題を年明けまで引きずってはならない。今日散々考えた、この社会で生きていくことが如何に大変なことであるか、自己の将来像というものを如何に真剣に考えねばならないのかということを、決して忘れないこと。それが自分の道を切り開いていくための、第一歩となることだろう。

資本主義社会の陰謀 

将来の目標を持とう、夢を実現しよう・・・そんな言葉が巷には蔓延している。

僕は今まで、そういう言葉を聞かされるたび、思い悩まされてきた。夢?やりたいこと?そんなこと言われたって分からないよ、と。僕は首切りに怯える心配がなく安定してそれなり給料がもらえる仕事なら、それ以上望むものなどない、ずっとそう考えてきた。僕にとって、「夢」などというものは、半ば脅迫的な響きを持ったものと感じられさえしたのだった。

しかし、最近ふと気付いたのだ。夢を持とう、夢に向かって頑張ろう、そう人々に思い込ませることは、この社会が仕組んだこと、すなわち資本主義の陰謀なのだということに。

そのロジックはこうだ。

資本主義は人間の欲望を原動力としており、一度動き出すと富の増大のために絶えず更なる欲望を必要とする。欲望が人々を働かせ、人々に消費を行わせるのだ。人間の欲望を糧に止め処なく自己増殖するするシステムが資本主義なのである。
そして夢というのは突き詰めれば人間の欲望である。
欲望の安定供給のために資本主義が人々にまく種が「夢を持て」という言葉であり、それを人々が実行しようとすることによって、技術革新や新規産業の創出、市場の拡大といったことが実現し、結果的に富を増大させる。資本主義の要求に答え、その飢えを満たす。
その反対に、上にのし上がろうとか、新しいことにチャレンジしようという意思、野心を持たないもの、現状維持を望むものは、資本主義にとって自己の増殖に役立たない、「食えない」存在でしかない。
ゆえに彼らは「向上心のない愚か者」という烙印を押され、隅に追いやられるか、場合によってはこの世から葬り去られる。
すなわち、人々に夢を持たせることによって、資本主義は「自己実現」を果たすのであり、人々は資本主義に操られているに過ぎない。
夢を持とうという言葉の奥に潜むものは、資本主義の陰謀なのである。

・・・というのが、僕の考えだ。

1990年代以降の雇用の不安定化、格差の広がりは、従来規制により隠されてきた資本主義の本性があらわとなったからもたらされたもので、実力主義や企業内外での過当な競争は、僕のような安定志向の人間を排除するための動きだと捉えることもできる。

そもそも資本主義社会以前は、みなほとんどが農民で、毎年毎年同じ農作業を繰り返し、年に何度かの祭りを楽しみにするような、貧しくともささやかな幸せのあるような暮らしをしていたのだ。職業選択に悩まされることも、夢などという言葉に付きまとわれることもなかった。

僕が悩まされるのは資本主義のせい、全ては資本主義のせいなんだ!

















・・・という話を、今週の月曜に友人Kに話したら、彼に「何だか寂しい気分になった」と言われてしまった。

ちょっとそのまま突きつけるには主張が乱暴過ぎたようだ、と話してから反省した僕は一応補足をしておいた。

僕は資本主義を全否定する気はない(ゲームやPCなんてものは今の資本主義の産物だ)し、まして夢に向かって頑張っている人を否定するつもりなどない。
やりたいことがあるなら、そのために努力することは一向に結構だし、それはそれで素晴らしいことだろう。
ただ、この社会に生きる全員に「夢」を突きつけなくてもいいんじゃないか、山を目指さないで平野を行こうとする人をもっと尊重してもいいんじゃないかと思うんだ、と。

まあ、今の社会に適合できてない自分を合理化するための社会批判ととってくれればいい。どうあがこうと、僕は結局この社会で生きるしかないのだ。僕の心は、今夜もまた、就職への不安に蝕まれている・・・。