冷却ファンの豹変 

今日はメモリ(RAM)をデフォルトの256MB×2から1GB×2枚にグレードアップしたいなーっと思って、
色々検索して、前から考えていた通り、やっぱりアマゾンでバッファローのDN333-A1Gを買うのが、
価格的にも安心度的にも最強だなって結論に至ったのだけれど、
ついでに何となくこのパソコンの型名、LaVie TWを検索してみたら、
面白い情報が手に入った。
ユーザーレポートを掲載した個人サイトで以下の文章を目にしたのだ。
「常にファンが回っててやかましく感じたのですが電源設定をデフォルトの「LaVie」から「プレゼンテーション」等に変えると低負荷時はファンの回転数が落ちてかなり静かになります。どうやら、デフォルトの電源設定だと拡張版Speed Stepが効かないようになっているらしいです。(周波数測ってみて分かりました。) このことは、他のNECノートにも言えるようです。」
(ソース:http://kettya.com/notebook2/report_det.php?key=lavie_tw
早速設定をそれに沿って変更してみた。
すると驚くべきことに、普段は回りっぱなしがスタンダードのファンが、こまめに止まるようになった。
これまでは回りっぱなしに慣れていて、ファンがうるさいということを感じなくなっていて、
むしろたまに止まると違和感を覚えて静かになったことに気付かされるほどだった。
それゆえ、ファンが長く止まり続けることによる静寂を知った俺は、逆に、
ファンが作動しないとこんなにも静かなものなのか、と驚かされてしまった。
なるほど、この状態は以前より快適だ。
本来、テレビ、DVDプレイヤーとしての用途が大きなウェートを占めるこのパソコンにとって、
静寂性は重要な要素なのだ。
だが俺は今までそのことを忘れていたどころか、ほとんど考えてもみなかった。
なので、今回貴重な情報を得て、こうして動作の明らかな改善を図れたことは、とても意義が大きかったといえる。
またハード的な変更を加えなくても、ほんのちょっとした操作でこれほどパフォーマンスを向上させられるのだと知って、
驚くとともに、まだまだ動作を改善できる工夫の余地はあるのではないかと思うようになった。
今までデフラグや不要プログラムの削除程度しか行ってこなかったが、
今後は積極的にその他の方法についても調べてみたいと思う。

二十を前に 

僕は明日で二十才を迎える。
だから、今日が10代最後の日というわけだ。
今までは二十才になるということの重みとか、責任感とかのほうにばかり目を向けてきて、10代が終わるということについては意識しつつも深く考えてこなかった。
しかし、今日になって急に後者に対する思いが強くなった。
自分にとって10代とはどんな時代だったろうか、そして10代のうちに何かやっておくべきことはなかったのだろうか・・・と。
そういうわけで、さっき、自分が今までに感銘を受けた音楽を聴きつつ、「10代のうちに」なんてワードをググってみた。
だが、特に「これは確かにそうだな」と思えるような主張や体験談などには出会えなかった。
スポーツ・勉強に励むこと、趣味に興じること、暇を持て余すこと、人と遊ぶこと、色んなことに悩むこと、家族に怒られ反発すること・・・・・・ネット上に挙げられていた事柄はの多くは、他の人には見劣りするにせよ、それなりに体験してきたことだった。
ということは、僕は人並みにそこそこ充実した人生というのをこれまで実現してこれたということなのだろうか。
確かに、過去において反省点は多々あるにせよ、やらなかったために深く後悔していることというのは、ぱっとは思いつかない。
あえて挙げるとしても、せいぜい高校時代に何か部活をやっておけばよかったかもしれないな、と思う気持ちが若干あるというくらいなもの。
そう考えると、やっぱり僕の人生は、何だかんだ言って、結構いい人生だったんだな、と思えてくる。
過去をよくよく思い返してみると、小中学生時代に友人たちと学校で、公園で、河原で、お祭りで、自分の家で、誰かの家で、遊んだときの記憶が当時の楽しさやワクワク感と共に次々と蘇ってくる。
浮かんでくるのは楽しかった記憶ばかりではない。
小学生時代には、嫌なあだ名をつけられていたこと、鼻の穴がでかいことにコンプレックスを抱いていたこと、習い事のピアノが嫌で仕方なかったこと、食べるのが遅くて昼休みの多くを給食につぶされていたこと、運動神経が鈍いことを「なぜ僕だけこんなにダメなんだ」と呪っていたこと・・・。
中学時代には、部活でやっていたバドミントンで、能力的に他の部員からどんどん離されていき、後輩にも負けるほどで、とてもつらかったこと、塾へ行かされるのが苦痛だったこと、修学旅行での班行動で、知識・準備不足から計画をメチャクチャにしてしまったこと、大枚をはたいて購入したゲーム機が一ヵ月後に6000円も値下げして悔しがったこと・・・。
思い出は、今までに生きてきた日の数だけあり、失敗も成功も、悲しみも喜びも、数限りなくある。
高校大学時代にも、濃密度的には低下するものの、やはりかけがえのないたくさんの思い出がある。
それら思い出、出来事の全てが、今の自分の形成へとつながっているのだ。
ここにきて、もはや僕は、自分のこれまでの人生を、素晴らしいものだったと、確信するに至った。
くだらないと思っていたこの人生に、眩い輝きが隠れていたのに気が付いた。
こうして、10代最後の日を、これまでの人生を完全肯定した上で締めくくることが出来るのは、とても喜ばしいことだ。
明日から僕は20代に足を踏み入れる。
法的には、参政権が与えられるとか、逮捕されても「少年」とは呼ばれなくなるとか、年金を払わなければならなくなるとか、色々変化が起こるといえる。
しかし自分そのものに突然、何か特別な変化が起こるなんてことはないだろう。
身体的にも、人格的にも、身分的にも、習慣などの面でも、明日の自分は今日の自分と同じはずだ。
それでも、今日と明日との間に区切りをつけておく必要はある。
だから今日、過去を顧みてあれこれ考え、これまでの人生を総括したことには意味があったといえる。
過去に数え切れぬ出来事がありそれらが自分を創り、変えていったのだから、今何か決意をしたからと言って一晩で自分が変われるはずはないし、そうしようとする理由もない。
だから僕はこのまま何も変えようなどとせず、ただ穏やかに明日を迎えようと思う。
自分に多くのものを与えてくれたこの20年間に感謝し、子どもだった時代に別れを告げながら。



僕が今日聴いている歌の中で、特に心に染みたものを「10代のうちに聴いておくべき曲」として以下に挙げておくので、興味がある人は聴いてみて欲しい。

・小田和正「19の頃」「風のように」(個人主義)
・玉置浩二「ルーキー」「元気な町」(田園 KOJI TAMAKI BEST)
・酒井ミキオ「Dive In The Sky」「Wonderful Life」(Dive In The Sky)
・徳永英明「夢を信じて」

資本主義社会の陰謀 

将来の目標を持とう、夢を実現しよう・・・そんな言葉が巷には蔓延している。

僕は今まで、そういう言葉を聞かされるたび、思い悩まされてきた。夢?やりたいこと?そんなこと言われたって分からないよ、と。僕は首切りに怯える心配がなく安定してそれなり給料がもらえる仕事なら、それ以上望むものなどない、ずっとそう考えてきた。僕にとって、「夢」などというものは、半ば脅迫的な響きを持ったものと感じられさえしたのだった。

しかし、最近ふと気付いたのだ。夢を持とう、夢に向かって頑張ろう、そう人々に思い込ませることは、この社会が仕組んだこと、すなわち資本主義の陰謀なのだということに。

そのロジックはこうだ。

資本主義は人間の欲望を原動力としており、一度動き出すと富の増大のために絶えず更なる欲望を必要とする。欲望が人々を働かせ、人々に消費を行わせるのだ。人間の欲望を糧に止め処なく自己増殖するするシステムが資本主義なのである。
そして夢というのは突き詰めれば人間の欲望である。
欲望の安定供給のために資本主義が人々にまく種が「夢を持て」という言葉であり、それを人々が実行しようとすることによって、技術革新や新規産業の創出、市場の拡大といったことが実現し、結果的に富を増大させる。資本主義の要求に答え、その飢えを満たす。
その反対に、上にのし上がろうとか、新しいことにチャレンジしようという意思、野心を持たないもの、現状維持を望むものは、資本主義にとって自己の増殖に役立たない、「食えない」存在でしかない。
ゆえに彼らは「向上心のない愚か者」という烙印を押され、隅に追いやられるか、場合によってはこの世から葬り去られる。
すなわち、人々に夢を持たせることによって、資本主義は「自己実現」を果たすのであり、人々は資本主義に操られているに過ぎない。
夢を持とうという言葉の奥に潜むものは、資本主義の陰謀なのである。

・・・というのが、僕の考えだ。

1990年代以降の雇用の不安定化、格差の広がりは、従来規制により隠されてきた資本主義の本性があらわとなったからもたらされたもので、実力主義や企業内外での過当な競争は、僕のような安定志向の人間を排除するための動きだと捉えることもできる。

そもそも資本主義社会以前は、みなほとんどが農民で、毎年毎年同じ農作業を繰り返し、年に何度かの祭りを楽しみにするような、貧しくともささやかな幸せのあるような暮らしをしていたのだ。職業選択に悩まされることも、夢などという言葉に付きまとわれることもなかった。

僕が悩まされるのは資本主義のせい、全ては資本主義のせいなんだ!

















・・・という話を、今週の月曜に友人Kに話したら、彼に「何だか寂しい気分になった」と言われてしまった。

ちょっとそのまま突きつけるには主張が乱暴過ぎたようだ、と話してから反省した僕は一応補足をしておいた。

僕は資本主義を全否定する気はない(ゲームやPCなんてものは今の資本主義の産物だ)し、まして夢に向かって頑張っている人を否定するつもりなどない。
やりたいことがあるなら、そのために努力することは一向に結構だし、それはそれで素晴らしいことだろう。
ただ、この社会に生きる全員に「夢」を突きつけなくてもいいんじゃないか、山を目指さないで平野を行こうとする人をもっと尊重してもいいんじゃないかと思うんだ、と。

まあ、今の社会に適合できてない自分を合理化するための社会批判ととってくれればいい。どうあがこうと、僕は結局この社会で生きるしかないのだ。僕の心は、今夜もまた、就職への不安に蝕まれている・・・。