今年の終り、そして来年 

12月の授業が終わった翌日に帰省してから、早や9日が過ぎた。
公務員試験に向けた勉強のスタートを切りたいと思っていた僕は、この冬休みを利用して勉強の習慣を定着させよう、毎日8時間勉強しようなどと意気込んでおり、また友人のSにある教科のテキストの内容をまとめたノートを作ることを約束した都合上、何が何でも勉強しなければならない状況に自分を追い込んでいた。
だが、高校時代、家で全く勉強が進まなかった原因の何かは、自室の機能が大幅にアパートに移転され自室がガラガラになっている今でも健在であるらしく、家に帰って日を経るに連れ、勉強時間は右肩下がりのグラフを描くようになった。
要するに、この9日間で勉強は思うようには進まなかったということだ。
かといって、何か他のことをしたのかといえば、決してそんなことはない。外出はほとんどしていない。昨晩雪が降ったせいでこの傾向はより強まるだろう。
趣味や娯楽にもそんなに時間を費やしてはいない。最近好んで読んでいる乙一の小説を2冊ほど読んだりしたが、それ以外はゲームもほとんどしていないし、テレビやDVDもまあいつもとそう変わらない程度しか見ていない。
何に時間を使っているのかもよく分からないうちに、あれよあれよと言う間に時が流れて、何となく一日が終わってしまう。そんな感じの過ごし方がここ何日か続いている。
これはマズイことだ。
そもそもこういう風に一日が過ぎてしまうというのは、今年1年の日常において典型的な事象であった。
Sとは授業が被っている木曜日に毎週必ず会う関係上、その日に一緒に昼飯を食べて話などをするのが後期以降の習慣となっていて(但しその日以外はまず会わない)、その際に彼がバイトやらサークル活動やら公務員の勉強やらで多忙な様子について毎回口にしつつ、暇人の僕が何をしているのかを訊くのが定番な会話だったのだが、僕はその度に「何をしてるか自分でもよく分からない」と答えていたのだ。
大学ではほとんど欠席せず講義に出ている。
しかし講義が終わってすぐにアパートに帰った後は、何をしているのか自分でもよく分からなかったりするのである。
ゲーム、パソコン、DIACASから届くDVDなど、アパートには誘惑が多い。
しかし特にそのいずれかに時間をつぎ込んでいるということもない。
ゲームなどむしろもっとやらないといつまで経っても積みゲーの消化が進まないから、もっと積極的にプレイ時間を増やすべきだとさえ感じているくらいだ。
当然勉強が進むなどということはない。
だから何をしているか謎なのだ。
だがおそらく、今月始めに導入されたコタツに足を突っ込みながらぼけーっとしている時間のことをあまり覚えていないというのがかなりあるのではないかと最近感じている。
これは実家でも同様におきていることだと思う。
原因はともかく、今年はこういう「何とも無しに過ぎていった時間」というのがあまりにも多すぎた。
今年の初めに掲げた12の抱負がわずか3つしか達成されなかったのも、時間の有効活用と行動の効率化がなされなかったことが足を引っ張ったからだろう。
20を過ぎて、時間の貴重さというものがしみじみと感じられるようになって来た気がする。
来年は、「アパートや家ではゲームくらいしか進まない」ということを胸に刻んで、勉強にせよ、趣味的な行動にせよ、外に出て行うことを積極的に進めていかなければならない。
そしてたくさんのことを、色んな新しいことを、やってみたり、目にしたり出来る年にしたい。
ありふれた、ひねりのない目標ではあるが、あらゆることにおいてまだ人並みのことすら出来ていないのが、凡人以下どころか凡人未満なのが現状であるから、まずは凡人の域にしっかり達すること、「立派な凡人」になることから目指したいと思うので、このくらいでちょうどいいのだ。
「今年はこんなにたくさんのことをした!」・・・来年の今日、自分がそう胸を張って言うことが出来ることを強く願ってやまない。

この先、生きていくことは 

僕はもうずい分と昔から、中二くらいのころから、将来は地方公務員になろうと、役場や市役所の職員になろうと考えてきた。

でも今までは、愚かなことに、具体的にどういう風な経緯を経てなれるものなのか、どのようなことを勉強すればいいのか、どういう人間が求められるのかということはもちろんのこと、役所といっても職種が様々あること、それらの職に就いたらどういう仕事をすることになるのかということさえも、知らなかった。知ろうとしなかった。ろくに考えても来なかった。

高校のことを考えていればよかった中学時代、大学のことを考えていればよかった高校時代に「将来の仕事」がぼんやりしたものであるのは、割合よくあることとも言えるし、それはそれで許されうることだろう。しかし大学というもはや次のステップで社会に出なければいけない、最終段階に来て、なお就職ということを深く、真剣に見つめようとしなかった、入学して一年くらいならまだしも二年近くが過ぎようとしている今まで棚に上げ続けてきたということは、あまりにも無責任で、無計画で、楽観的で、愚鈍なこととしか言いようがない。僕は今日になって、あまりにもようやくにして、絶望的なほど強烈にそのことを思い知り、そしてこの現実をもたらした自分自身を呪った。

僕は今日、ネットで、「地方上級」をターゲットに、本格的な情報収集に乗り出した。そうしてみて初めて、自分が挑戦しようとしているハードルが如何なるものなのか、その一端を知ることとなった。そして気付いたのだ。あまりにも、あまりにも、あまりにも、自分は愚かであったということに。

何故自分は公務員を目指そうとしたのか、何故公務員になりたいのか。そもそも、そんな根源的かつ最重要な問いにさえも、僕はしっかりした答えを持ってこなかった。どこか抜けていた。自分で自分に尋ねてみる。―――――「リストラされないから。給料が安定しているから」・・・・・。え?これだけ?それが本心ってこと?「この地域に住む人々のために奉仕したい。住民のために貢献出来る仕事がしたいから」・・・・・・は?何その幼稚な答え。そんな中学生の作文以下の抽象的な文言が、面接官に説得力を持つと思ってるの?第一それと公務員とは別に結びつかないし。普通の企業だって人々が求める財やサービスを提供して、きちんと納税してれば立派に社会貢献してることになるだろうが。それでうまいこと言ったとでも思ってるんなら、ちょっと病院で脳みそスキャンしてもらったほうがいいんじゃない?まあ、心の底から思ってることじゃないのは見え見えだけど。ふーん、なーんだ、結局『何となく』なんだね。何となく安定してそうだから、こつこつ同じ仕事をこなしてればいいだけってようなイメージがあるから、公務員になりたいんだね。なになに?民間企業が求める人材はバイトとかサークルを頑張って色んな経験を積んだコミュニケーション能力豊かな人だろうけど、公務員は自分みたいな大学生として一線画してるようなダメ人間でも、勉強さえ頑張れば、筆記試験を通れば、面接で差し障りないこと言うだけでなれそうだと思う、だって?ほほー、それはどうかな〜。確かに勉強が必要なことは間違いないことだよ。勉強は勉強でも猛烈な勉強がね。でもそれだけが全てだと思ってるならお笑い種だよ。君にビジョンはあるかい?例えば、公務員になってどういうことがしてみたいか、住んでいる地域をよりよくするためには、住民へのサービスを向上させるためにはどういう施策が必要だと思うかなんてこと、考えたことはあるかい?人間性はどうだい?住民の声に真剣に耳を傾ける誠実さ、税金で生かしてもらっていることを忘れず、住民のために全力を注ぎ込もうという決意や公僕としての使命感、不正を決して許さない正義感、どんな不条理な苦情であったとしても素直に頭を下げ、詫びることのできるだけの謙虚さと忍耐力・・・。そういったものが君には備わっていると言えるかい?ああ、言わなくていい、言わなくていい。そんな立派な人間だとはこれっぽっちも期待してないから。何でかって、人との交流もなく、人生経験も貧しいんだから当たり前だろ?誰だってそんな暗い顔もぞもぞ話をするような人間の中身がどんなかなんて、すぐに分かるよ。ウソをついて誤魔化そうとしたところで無駄なことさ。君にはそんな大法螺を吹けるような、器用で達者な口が付いてはいないんだもの。どうしてなりたいかも分からないで、理念も持たないで頑張れるほど、公務員になるための勉強は甘くないよ。・・・あれ?挫折しちゃったの?たったこれだけのことで、もうダメだって思っちゃったの?ったく、呆れた。成人したくせに、へこたれ易さは小学生レベルだな。いやそれより下か?どれだけノータリンなんだよ。あのね、働くってのはね、人からお金をもらって生きるってのはね、どんな職業であれ大変なことなんだよ。みんなつらいこと、苦しいことをたくさん抱えて、毎日必死に苦労して生きてるんだ。一生懸命に生きてるんだよ。それだってのに君ときたら、仕事に就くまでのハードルが高いって知っただけでもう全てお仕舞いだなんて思考のループにはまり込んじゃうなんて。全く、浅はかとしか言いようがないね。死にたければ死ねよ。どうせそんなに自分に甘い人間は、社会の誰も必要としてなんかいないから。――――自分との対話から覚めたとき、自分の自分への甘さや、思慮の浅薄さ、それらがくっきりと浮かび上がってきた。

僕はどうすればいいのか。公務員になろうとするにも、民間企業を目指す方向に転換するにも、今の腐れ根性を根底から叩き直し、偽りなく確固とした目的意識を構築することは不可欠だ。もはや時間はない。この問題を年明けまで引きずってはならない。今日散々考えた、この社会で生きていくことが如何に大変なことであるか、自己の将来像というものを如何に真剣に考えねばならないのかということを、決して忘れないこと。それが自分の道を切り開いていくための、第一歩となることだろう。