ゲームを楽しむこと、人生が有限であること
近頃、風来のシレンDSにハマっている。
2週間ほど前から、平日は夜の時間、全休日含む休日はほとんど丸1日をプレイに費やすほど、猛烈にプレイしている。
元々シレンをはじめとする不思議のダンジョンシリーズは好きな作品の一つであり、今作も発売直後の06年12月に購入済だったのだが、しかし何となく手を付けずにこれまでアパートの隅に積まれたまま放置されていた。
それをふとプレイしたくなってやってみた結果が、このハマり様である。
2週間でおそらく70時間はプレイしたであろう。
原作のSFC版が極めて秀逸なシステムとゲームバランスを備えた画期的な作品だった上、リメイクするに当たってWi-Fiで救助を求められる「風来救助隊」システムや、3つの新たなダンジョン、新たな道具などが追加されて、ボリュームが大幅にアップしたことが原因だと思う。
最初はこのままゲームにのめりこんで廃人になってしまうのではないかというくらいの長時間連続プレイをしていたが、その成果としてある程度イベントも片付き、装備も充実し、追加ダンジョンを制覇したりしてダンジョン探索も一段落ついたので、ようやく生活に支障をきたさない程度の時間にとどめられるようになってきた。
いくら優秀なソフトとはいえ、あんまり長くプレイしたからといって一概に楽しいということはない。
大勢で遊ぶなら単純なソフトでも長時間楽しめるが、一人となるとやりこみ要素が豊富であってもやはり単調さが拭えなくなってくるし、作業感も強くなってくる。
何より惰性でやめられないだけで、実際楽しんでいない状態になってしまったりもする。
やはり、少しずつこつこつ進めるというのが、一番ちょうどいいと感じられる水準なのだろう。
さて今回書きたいのは別にシレンの面白さとかについてではない。
ここからは、僕がゲームをどのようにして遊んでいるか、これからどのように付き合っていくつもりか、そういうことについて書いてみようと思う。
僕は一度着手した、プレイし始めたゲームは、一通りの要素を楽しむまで続けることにしている。
それは一般的なソフトなら、エンディングを迎えてクリアするまで、あるいはクリア後の要素などをある程度消化するまで、ということを意味する。
中学以前は新しいソフトを購入するたび、それまでプレイしていたものを途中で投げ出すということをたびたびしていたが、ここ何年かは一度始めたらなるべく最後までやるように心がけている。
途中で長く中断すると、次に再開したときストーリーなどを忘れてしまっていることがありうるし、操作の勘を取り戻すまでにまた時間もかかってしまう。
何よりブランクが空いてしまうと中々再開するのが億劫になってしまうものだ。
だから一度で遊びつくすようにしているのである。
かといって、隅々まで遊んでやりこみまくるかというと、必ずしもそうではない。
僕は作品を自然に楽しむため、「一周目はなるべく攻略情報には触れない」というのをモットーにしているので、ジャンルに関わらずクリアまでには中々時間がかかってしまう。
また一度クリアした後は、取り損ねたアイテムや見そびれたイベントなどをなくすためにネットで攻略情報を見たりするが、最近の作品はやりこもうと思えば際限がものが少なくないし、RPGなどでも一々レベルやステータスをMAXまであげたところで、それほど価値や効用を見出せるものではない。
それに僕は裏ボスなどを低レベルで倒せるような玄人ゲーマーでもない。
ゆえにある程度のところで妥協して、「終わり」とすることとなる。
それが僕の中途半端なところといえばそうなのだが、元々要領が悪い上、ゲームを好きなように遊べるようになったのが人よりずい分遅く、経験や「こなした数」に後れを取ってきた僕にとっては、他の人の辿ってきた道に早く追いつくためにはそういう方法をとるのはやむをえない、そういう事情もあった。
大学に入ってからはあまり熱っぽく人とゲームについて語り合う機会がなくなったが、中高時代などには毎日のように友人同士でそういう話をしていた。
だからゲームに関する知識や経験、どんなタイトルをプレイしてきたか、クリアしたか、ということはとても大きな意味を持っていたし、僕も周りについていくために積極的にゲームをしようとしてきた。
もちろんゲームが好きだったから、もっと楽しみたくて、人と語り合いたくて、色んなタイトルをこなそうとしてきた。
だが皮肉なことに、大学に入って自由な時間が増え、これで今まで以上にたくさんゲームが出来るかと思ったところで、ゲームを通じてコミュニケーションをする機会というのはがくんと減ってしまった。
年齢的に周りの人がゲームを「卒業」してしまったというわけではない。
単に僕が人との接点を失ってしまったのだ。
そうして僕は、ゲームを楽しむことにおいて人と触れるということがどれほど大きな意味を持つか、それが僕が今までゲームをしてきた中でどれほど大きな役割を果たしてきたかを思い知ったのだった。
それから約二年。
今も僕は、ゲームを趣味のひとつとして楽しんでいる。
今回のように猛烈にのめりこんだこともあったし、一ヶ月近く全くプレイしないこともあった。
だが、だんだん好きなときに自分のペースで楽しむという風になりつつある。
僕はゲームが携帯電話のような「コミュニケーションツール」としての側面を持っている部分も非常に大きいと思っているが、一方で一人で楽しむという楽しみ方も決して無為不毛なものではない。
それもまた乙なものだ。
だから心の欲するとき欲するままに楽しむ(ただ一度始めたらなるべく最後までやり通す)という風にこれからも付き合っていくことになると思う。
ゲームを仲立ちに人と語らうこともたまにはしたいけどね。
これからも僕という人間を形成する要素の中で、ゲームの占める領域というのは大きなものであり続けるだろう。
ただ気がかりなのは、僕が「やってみたいな」と思うソフトが増えていく中で、それを達成し消化していく速度というのは鈍化しているということだ。
WiiにDS、PS3にPSPといったハードが共存し、新しい遊び方を提案しているで、昨今はゲーム業界も活況なようである。
シリーズ作品にルーキー作品、ファミ通に目を通したり、ゲーム屋を物色したりするたび、面白そうなタイトルが目に留まる。
しかし、資金も時間も限られている中で、それらの全てをプレイすることは不可能に近い。
長いスパンで捉えれば、何年かあとにそれらをプレイする機会はめぐってくることになるのだろう。
だがその間にも新たな魅力ある作品が生まれてくる。
長い目で見れば、それ以上は先に延ばせない限界、寿命という限界が立ちはだかるのは明らかなことだ。
太宰治か誰かの小説作品のように、作者がもう亡くなっていてこれ以上作品が増えることもなく、作品の絶対数もごく限られているなら、全てを読破する、楽しむということは十分に可能なことであるが、現在進行形で数が増えていて、これからも増え続けるであろうものの全てに触れるということはやはり無理がある。
だから近頃思うのは、「自分は死ぬまでにあと何本のゲームをプレイすることが出来るのだろうか」ということだ。
ファミ通に連載されているみずしな孝之先生の「いい電子」でも、以前そんなコメントが載っていた気がする。
僕は元々コンプリート欲みたいなのが結構あって、マンガでも小説でもシリーズものは全部手を付けたいし、食玩みたいなものは全部コレクションしたくなるタチなのだが、ことにゲームに至っては、そういうわけには行きそうにない。
それがとても残念に思えてならない。
また2年後には(常識的に考えて)就職しているはずだが、働き始めれば当然今のようにゲームに好きなように時間を割くことは出来なくなる。
だからタイトル数をこなす速度は一層鈍化することだろう。
そのことがより不安感を煽る。
そうなったときは、きっと再び一度ゲームに対する姿勢というのを再考せねばならなくなるんだろうな。
経済学では、全ての商品・資源はその有限性、希少性ゆえ価値が与えられ、価格が付けられる。
人生も有限であり、一度きりだから価値がある。
不老不死なら、きっと今この時間の価値というのは無限に薄っぺらいものとなってしまうはず。
だから僕は永遠はいらない。
でもこの世界には僕のちっぽけな一生には納まりきらないほど、魅力ある、価値あるものが溢れている。
全てに触れたいと思っても、どうしたって取捨選択をしなくちゃならない。
全く、この世界を創った神様ってのは、いじわるなもんだね。
- [2008/05/20 20:16]
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